今年は3年ぶりに山鉾巡行が行われると言うことで、京都の街は祇園祭ムード一色になりつつあります。去年は鉾建てだけはされたところがありましたが、1年間が空くと、手が思うように動かず、例年よりも30分以上余分に時間がかかったという話を聞きました。やはり継続すると言うことには意味があるのだと思います。
祇園祭は、古くは祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、日本各地に疫病が流行した貞観11(869)年に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の矛を立て、祇園社より神泉苑に神輿を送り、災厄の除去を祈ったことにはじまります。新型コロナウィルスの流行で、本来のお祭りの疫病除けの役割が果たせなかったことを残念に思っていましたが、流行の第7波とも言われている今、しっかりと災厄が祓われればいいなと願っています。
今回のコラムは、太宰府天満宮権禰宜の真木智也さんです。名古屋場所の勝敗の行方も気になる今日この頃ですね。
【相撲の神さま】
七月十日から大相撲名古屋場所が開催され、力士たちによる熱戦が繰り広げられておりますが、今回のコラムは相撲の神さまとされる野見宿禰(のみのすくね)について書きたいと存じます。
第十一代垂仁天皇の御代に、大和国葛下郡當麻の村に當麻蹴速(たいまのけはや)という非常に力が強く、身長七尺、黒毛生へ、熊のような風体をした男がいました。「この世の中で俺より強い男はあるまい。もしもあるなら何時でも相手になってやる。その代り、命はないものと覚悟して来い。」と威張り散らしていましたが、実際に蹴速に勝つ自信のあるものは一人もいませんでしたので、ますます増長して鹿の角を裂いたり、曲った鐵を伸して人を驚かせたりなど乱暴をはたらくまでに至りました。
そのことを天皇が聞召されて、群臣をお召しになり、「何処かに蹴速を取押える剛の者はいないだろうか。」と仰せになりました。その時、群臣の一人が進み出て、「出雲の国に野見宿禰という当代随一の勇者がいます」と奏上いたしましたので、急使が出雲へ派遣せられました。宿禰は、天皇の御召に従い、すみやかに都へ馳せ上り、清涼殿の前庭で蹴速と力を角することになりました。元来、蹴速は、その名の通り蹴ることが一番得意で、長い脚で相手を蹴り倒し、瞬時にして勝敗を決するが常でした。この時も、満身の力を右脚にこめ、ヤッと一声に素早く宿禰に対して蹴りを見せました。宿禰もこれに応じて蹴りを以って相対しましたが、やがて、双方四つに組み、しばらく勝負も混沌としていました。ところが、次の瞬間、蹴速は宿禰を高々と持ち上げたので、天皇をはじめ諸臣も、もはやこれまで片唾を呑んだ時、宿禰は、ここぞと満身の力で蹴速の脇腹目がけて一蹴り蹴ると、さすがの蹴速も哀れな声を立てて倒れました。更によろめくところを、今度は腰の骨を踏みくじいたので、蹴速は二度と起き上ることができなくなりました。
それをご覧になった天皇のお喜びは格別で、その武勇をお褒めになり、蹴速の領地をすべて宿禰に賜りました。それからというもの、菅公の先祖にあたる宿禰は出雲には帰らず、都に留まって代々朝廷にお仕へすることとなりました。かくして、この宿禰と蹴速の仕合が、わが国の国技「相撲」のはじめとして、また野見宿禰を相撲の祖神として崇敬する所以なのです。