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史上最速の梅雨明けと言うことですが、猛暑や水不足が心配されますね。梅雨の花といえば、紫陽花ですが、シーボルトが空色の紫陽花に、自分が愛した妻「お滝さん」の名を取り、Hydrangea otaksaと名を付けたことはよく知られています。二人が住んだ長崎では、紫陽花のことを「おたくさ」と呼んでいるそうです。
二人の娘が、日本初の女性産科医となった楠本イネ。そして、イネがシングルマザーとして生んだ娘が楠本高子。当時珍しいクオーターであった高子の美貌は、松本零士さんの目に留まり、銀河鉄道999のメーテルのモデルになったとも言われています。
今回のコラムは、心游舎理事で、日本近代史の研究者である伊藤真実子さんです。日本における医学の歴史は、シーボルト抜きには語れませんね。
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医心方とシーボルト
2022年2月から3月にかけて、東京国立博物館にて日本最古の医学書で国宝の「医心方(いしんぽう)」全30巻が公開されました。「医心方」は永観2(984)年、宮中医官であった針博士・丹波康頼(912〜995)が唐の時代より大陸より伝来した多くの医学書を底本として編纂された書です。「医心方」は、当時までに蓄積された医学研究を収集し編纂したものですので、より古い時代の医学書の知識もたどることができます。
日本における医学・薬学・薬種は、書物であれ人による技術であれ中国大陸、朝鮮半島から伝わってきました。聖武天皇の御物のおさめられた東大寺正倉院にも、当時大陸や東南アジアよりもたらされた薬種が光明皇后により納められています。
明の時代に李時珍(1518-1593)が1578年に完成させた『本草綱目』(全52巻)は朝鮮、日本、ベトナム、さらにはフランスにまで伝わった医学書です。日本には林羅山が慶長9(1604)年以前に入手してもたらされました。林羅山は徳川家康に献上、1637(寛永14)年以降、京都や江戸で中国をしのぐほど繰り返し刊行され、明治にはいっても刊行されたほどでした。
宝永5(1708)年には貝原益軒による翻訳本『大和本草』が完成します。『大和本草』では、日本にないもの、あいまいな物を削除し、新たに日本の特産種、方言も記載されました。医学・薬種は人命にかかわる重要な事柄ですので、方言の違いにより方法、薬種を間違えてしまったら、文字通り命取りとなってしまいます。
医書のほか、薬の原材料も輸入(多くは中国大陸)が主な物でした。輸入品はどうしてもお金がかかります。そこで八代将軍徳川吉宗が享保の改革で薬の国産化をめざしました。享保5(1721)年には採薬使を全国に派遣し、国内各地の薬剤を探査、採集し、輸入品に劣らない品質の国産薬種の開発に取り組みます。
もちろん、様々な病気や薬種の入手、新しい治療法を研究することは日本、中国を中心としたアジア圏だけではありません。薬種のもとになる動物・植物・鉱物などを対象にした博物学は古代より医学とともに重要で、古代ローマ時代のプリニウス(西暦23−79年)の『博物誌』、ディオスコリデス(西暦40−90年)による『薬物誌』などは、ルネサンスの頃まで読み継がれました。
航海技術が向上するとヨーロッパから世界へと様々な資源を求めた探求が始まります。江戸時代、長崎の出島にオランダ商館が建てられ、オランダ東インド会社との交易がなされました。オランダ商館に派遣された有名な外国人としてシーボルトがいます。シーボルトは医師であり博物学者でした。シーボルトは日本滞在中に出島で植物を育てて標本を作製し、種子や苗木とともに標本も船便で送る、もしくは持ち帰ったりしており、現在もライデン大学植物園にシーボルトが持ち帰った木々を見ることができます。
様々な薬種を扱う医師が博物学者であることは多く、同じく医師・博物学者でオランダ商館員として来日した人物にケンペル、ツンベルグがいます。彼等は、世界にどのような物があるのかを探求するためアジアへ航海し、来日しました。
新型コロナが発見されて以来、世界中の医療関係者の方々が治療・研究などに尽力されています。感染症だけでなく、国を超えて叡智を尽くし、協力しなければならないことが山積みです。