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今日は立春。暦の上では春。旧暦では新しい年の始まりのときです。北野天満宮では早咲きの梅が馥郁とした香りを境内に漂わせています。受験生らしき参拝客の方もちらほら。見かけると、その後ろ姿に「頑張れ!」と声をかけたくなります。
今日のコラムは、そんな受験生の気持ちもよくわかるという一茶庵宗家嫡承の佃梓央さんです。本棚に並んだ本のチョイスを見ると、なんとなくその人の性格と言うか、人柄が透けて見えますよね。心游舎でお世話になった吉岡幸雄先生も、長艸敏明先生も、「なんでもいいから、とにかく本を読み!」とよく言われました。「自分には関係ないと思う本でも、読んでみると思いもよらないヒントが隠されていたりするもんや」と。本を読むと、語彙や表現力はもちろんのこと、何より自分の世界が大きく広がりますよね。物心がついたときから手もとにスマートフォンがある世代は、本を読まないと言いますが、たくさん本を読んで、たくさんの未知との遭遇をして欲しいなと思います。
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「書斎」から、行きつ戻りつ。
年が明けた頃から、電車の中でお見かけする制服姿のみなさんの、参考書や単語帳、過去問集にじっと集中して向き合うご様子を今まで以上に目にするようになりました。それもそのはずです。受験シーズンに入って来ているんですね。予備校の講習を最後の最後まで受けに行ったり、受験当日は雪の中で会場に向かったり、私にも何やら覚えがあるようです。
私の場合、楽しくクラブ活動をやりすぎた高校生活が祟って、一年間予備校に通うことになりましたが、その一年間は今になってみれば「本を読む」よう動機付けられていった一年だったように思います。特に、英語、現代文に古文・漢文。文章を精読していくタイプの授業が面白く、自分では全く読めもしない文章なのに、先生方に読み方と内容を教わり、何より、その文章内容から派生して展開される先生方の余談の数々が面白かったのです。そのどれもが魅力的で、「本を読む」その先には、これほどまでに面白い世界が広がっているのかと日々興奮していたことを思い出します。まあそのおかげで、問題を解く、とか、暗記するといったことに関してはさっぱりダメな受験生だったようですが・・・。
大学生になってからはひとり暮らし生活が始まり、完全な自分のプライベート空間ができました。受験時代から私にとって本を読むこと自体が憧れのようになっていて、頭の中と同様に全く整理できていないぐちゃぐちゃな部屋の中で、唯一綺麗に楽しみながら自分なりに整えていたのは「本棚」でした。読んだ本、読みたい本を、ジャンル、著者、背表紙の色に配慮しながら本棚の中をデザインしていきました。そこから本を出し入れして読書するのはちょっとした自分だけの喜びでした。本が増えていき、本棚を増設するにしたがって、ごちゃごちゃの自分の部屋は、私だけの、なんちゃって「書斎」に変容していくようで、密かに興奮したのを思い出します。
「書斎」。
読書や書き物をするための部屋。
「書斎」という単語を使ったとき、「書」は書物、「斎」は部屋を表しますが、この「斎」という漢字はなかなか興味深い言葉です。
かつての中国の知識人(文人)たちも日本の文人たちも、自分の書斎に名前を付けていました。「◎◎堂」とか「○○亭」、「××軒」など色々な名付け方がありますが「△△斎」というのも文字通りよく使われる書斎名です。書斎名がそのままその所有者の名前を表すようになり、「△△斎」という名前を名乗っておられる方もおられますが、もともとは全て書斎名を踏まえた名称でしょう。これだけ見ていると「斎」は「部屋」やそれを所有する「人」を表す言葉のようですが、もっと古くは違った意味だったようです。
「斎」。ものの本(斎藤希史『漢文ノート』2021東京大学出版会)によれば、「斎」が読書し書き物をするための部屋の意を示すようになったのは六朝時代(りくちょうじだい:中国の時代区分。229から589年)以降のこと。それまでは「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」の「斎」の意。つまり、神事や祭事に先立って心身を清め、飲食や行動を慎み、体を洗い、穢れを取り払うこと。「斎」には「いわう・いつく・ものいみ」といった訓読みがありますが、これがもともとの意味のようです。「斎」とは、つまり、神聖なる異世界と繋がるために、この世の穢れを払い、心を慎み整える、といったことのようです。
それが「読書や書き物をする部屋」の意味へと変わっていったのは、考えてみれば非常に興味深いことです。「神聖なる異世界と繋がるため、穢れを払い、心を慎み整える」行為を示していた言葉が、「読書し書き物をする」ための場所を表せるまでに広がっていったのです。このように言葉の意味が展開していくのですから、当時の人々は「いわう・いつく・ものいみ」と「読書し書き物をする」ということとに、本質的な類似性を見出していたのでしょう。「斎」とは、異世界と繋がるために心を整えることやそれをするための場所、というようにとらえられていたようです。
六朝以降の文人たちは好んで「斎」という言葉を使いました。彼らが使った「斎」の意は「世俗から離れた静かな建物」の意。「山斎」とか「書斎」という言葉が散見されます。そこは文人たちにとって、世俗での人間関係、遂げられない志、挫折、どうしようもないしがらみ・・・、そういった生々しい現実の閉塞感から離れて精神的な自由を得るための場所だったようです。少し注意しておきたいのですが、中国の知識人(=文人)は、「世捨て人」ではありません。彼らの多くは国家官僚や地方官としての社会的職務を担い、日々、限りない日常を生きていた人たちです。限りなき日常に終止符を打ち、世俗と関わらずに生きていくことを選択するのが「世捨て」だとすれば、限りなき日常に句読点を打ち、「次はどんな文章を続けようか、次はどんな段落に展開していこうか」と少し立ち止まるためのゆとりや遊び、それが文人たちの「斎」での営みであったようです。先人たちが書き残した文や詩を読むことで彼らと繋がり、彼らの考えや言葉を踏まえて自分が作文し作詩しながら先人たちに連なっていく。そしてまた彼らは「斎」を出てゆき、次へと続く日常へ戻っていくわけです。左遷されてもまた戻り、飛ばされてもまた戻る、「斎」と「日常」の往復、それが彼らの人生でした。
「斎」と「日常」の往復。つまり「書斎」の中と外とを行き来する生活。
私たちが今書斎に入る時、本を広げるとき、英語の問題集、資格取得、昇進のための云々・・・、「日常」と直結しすぎてはいないでしょうか、或いは、0,1秒以下の単位でさまざまな刺激を与えて来るだけの動画に時間をつぶしたり・・・、日常を意識して遠ざけながら自分の世界に籠ってしまってはいないでしょうか。私自身もこういう時間に追われたり、浸ったりしてしまうこともよくよくある事なので偉そうなことは言えませんが、ただ何となく、目的もなく、先人たちの言葉と繋がり、それに連なる自分の言葉を作り上げるような、言葉の思索時間も持っていたいものです。そんな時間を過ごすための空間としての「書斎」。「書斎」の中で時代を越えて他人の言葉と繋がり、それと接続しながら自分の言葉を紡ぎ出しつつ、社会の中ではお勤めをせねばならない「日常」へも戻っていった、そんな文人たちの生き方は、何か我々にヒントをくれるかもしれません。
書斎には本があります。かつての文人たちの書斎には、それとともに「茶」がありました。それがわれわれの引き継いでいる文人の茶、「煎茶」です。
受験シーズンに入り、真剣な目つきをされている受験生の皆さんの姿を見ていると、私が受験生の時に感じたような「本を読む」その先にある面白すぎる世界を彼らも興奮しながら接しようとしているのではないかと思えてきます。そして同時に、今、自分自身が書斎の茶である「煎茶」を紹介する人間として、「本を読む」その先にあるとんでもない豊かな言葉の世界にお繋ぎできているのかどうか、振り返らされているようでもあります。書物の世界に繋がり連なるためのツールとしての「茶」の文化。コロナ禍でも、コロナ後でも、ずっと変わらない煎茶の文化の源泉を、今年もみなさまとご一緒できればと思ています。どうぞ今年もよろしくお願い致します。