11月並みの気温とのことで、随分と寒くなりました。街路樹の紅葉も進んできた気がします。今年の紅葉の色付きはどうでしょうか。
今回のコラムの執筆者は、心游舎事務局長の多田容子さんです。お料理の盛り付けもそうですし、絵画、陶磁器など、日本文化は空間を上手に使うものが多くあります。特に絵画は、「賛待ちの余白」などと言い、絵を賞賛する言葉である「画賛」を書いてもらうために、敢えてその空間を空けて絵を仕上げることもあり、キャンバスを隙間なく塗りつぶしてあることが多い西洋絵画とは大きく異なっています。余白の多い日本の絵画に初めて触れた外国人たちは、最初はそれが「未完成の作品」のように思えたようで、なかなか理解されませんでしたが、徐々に日本らしさとして受け入れられるようになっていったようです。
文化は余白から生まれてくるものです。芸術の秋、読書の秋、文化の秋などと言います。日々の余白の中で、文化を楽しみたいものですね。
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「何もないところに宿る、最高の美」
心游舎で活動していると、幸せなことに美しいものに触れる機会が数多くあります。
芸能、伝統工芸品の数々、お菓子に至るまで、それらを一つずつ挙げていくとキリがないのですが、それらには全て一本筋の通った普遍的な日本人独特の美意識でもって表現されていることに改めて気づかされます。
先日も、京都のとある割烹でお食事を頂いたのですが、店の設え、器、出される一品一品の盛り付け、食材どれもが調和していてとても美しく、こころが落ち着く。
このセンス、日本人の美意識の本質って一体何なんだろう?
そんなことを考えつつ、色々と調べていると、「不完全な余白のあるものに次の想像力を膨らませることのできる「余白」の空間に、日本人は「美」を感じてきた。足りないことを不十分と考えずそこに想像力豊かなイメージをふくらますことで何かしら新しいものが見えてくるものがあり、それが「不足の美」となるという一文を見つけ、改めて腹にストンと落ちました。
「何もないところに宿る、最高の美」
『茶話指月集(さわしげつしゅう)』に記されている千利休と秀吉の朝顔の逸話は有名なお話ですね。秀吉は、利休の屋敷の露地に美しい朝顔が咲き乱れているという噂を耳にし、朝顔の茶の湯を所望した。そこで利休は秀吉を自分の邸に招くのですが、当日の朝、利休は庭に咲いていた朝顔の花を全部摘み取らせてしまった。それを目にした秀吉は、期待を裏切られ不機嫌になるものの、茶室に招じ入れられると、その床の間に一輪、見事な朝顔が活けられており、それを見た秀吉は大いに満足したというお話です。
庭で咲き乱れる朝顔を犠牲にし、一輪の朝顔を際立たせるという利休の見事な演出。ここに「不足の美」の真髄が宿っているように思えます。
また、日本人が大切にする「余白の美」という概念。
あえて白い部分を残す書道や白い砂利を敷き詰めただけの庭園、日本画などでも当たり前のように私たちは目にしていますが、そこには何もないのではなく、心で想像することで完成させて楽しむという計算された「美」にも、四季を感じ、自然と調和しながら生きてきた日本人であるからこそ養われてきた独特な美意識を感じます。
毎日の生活で触れるものに、少しだけこれらを意識して見てみるだけでも、たくさんの「不足の美」や「余白の美」があふれていることに気づき、毎日が違って見えそうな気がします。