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湿気が多いこの時期は、いつも梅雨のない北海道がうらやましくなります。でも、北海道でも本州ほどではありませんが、梅雨の時期はじめじめとして、曇りの日が多く、「蝦夷梅雨」と呼ばれたりもします。それでも、本州のような豪雨はほとんどありませんし、高温多湿でもないので、過ごしやすいことは間違いありません。早く気軽に旅ができる日が戻ってくるといいなと思います。

今回のコラムは、そんな北海道在住の心游舎理事、六花亭の小田文英さんが書いてくださいました。北海道は歴史的な背景が少ないと書いておられますが、以前北海道神宮でワークショップをした際、和菓子作りの実演のときに、職人さんの周りをぎりぎりのところまで取り囲み、至近距離で食い入るように和菓子ができるところを見ていた子どもたちの姿を思い出します。「こんなきれいな和菓子を見たことがない」「魔法みたいだった」と口々に話し、和菓子が出来上がるたびに大きな歓声と拍手が沸き起こっていました。

北海道では、百貨店の地下でもあまり上生菓子を売っていないそうで、和菓子はあまり食べたことがないという子どもたちが多く、「あんこもお餅もきらい」という子も参加していました。「一口だけ食べてみたら?」とお母さんがお汁粉を勧めると、一口なめて目が丸くなり、「…おいしい」とつぶやき、お餅もパクリ。本物のおいしさは子どもにしっかりと伝わるのだということを実感するとともに、和菓子の歴史が浅いからこそ、その文化が根付く可能性も大いに秘めているのではないかと思いました。

北海道の光と影、大切にしていきたいものです。
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「光と影」

北海道でも夏の香りがし始めました。この一ヵ月ほどではありますが、本州との季節のずれがもどかしかったり、待ち遠しかったりと、生活の中で心を動かしてくれています。そんな北海道の特性を愛おしく感じながら、日々を過ごしています。

一方で、寂しくなる側面もあります。それは、歴史的な背景の少ない地域だということです。もちろん、函館のように入植の早かった地域やアイヌ文化といった昔から存在している風習はありますが、総じて200年以下の歴史のところばかりです。私が勤める製菓業界には、創業200年を超える企業はいくつもあります。そういった意味で昔から根付いている文化や風習に対して、人一倍憧れをもっています。

私が憧れを感じるものの一つが日本建築、特に木造建築です。生活の多様性とともに、畳、障子、襖を使った日本建築の絶対数は減ってしまっていますが、和食同様に今まで先人たちが積み重ねてくれた生活の知恵の塊と考えています。最近、引っ越しをして、仕事机周りを整備していると、パソコンのケーブルの多さに閉口しながら、格闘。ふと、谷崎潤一郎を思い出します。ちょうど、明治時代に欧米化が始まり、家庭に電気の灯りが入り始めた頃です。和風の家にそぐわない電線コードやスイッチを隠すのに苦労したと著書「陰翳礼讃」の中で語っています。こうした生活の中の「和」と調和した家は、やはり、どこか日本らしさを感じさせてくれます。仮とはいえ、ケーブルだらけの私の仕事机が恥ずかしくなります。

谷崎潤一郎は陰翳礼讃の中で、電気の灯りは明るすぎると語っています。和室の良さは蝋燭の灯りで映えると。このエネルギーの浪費をよしとしない時代、今一度、その良さを感じて見るのはいかがでしょうか。光の色という点では、幸い、文明の進化のおかげで、LEDには調光のついたものも数多くあり、蝋燭に似た柔らかな雰囲気を作ってくれます。光量という点では、全てを満遍なく、燦々と、明るくするのではなく、必要なところに必要な光りを灯す。暗い部分が引き立ててくれて、より強調したい部分に注目を集めることができます。

暗さが活きる例として、同著の中では「日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮される」と漆器が挙がっています。改めて、我が家の仏間で電気を消して、蝋燭の明かりのみを灯し、普段、お味噌汁をいただいているお椀を眺めてみました。漆器にほのかに光が当たり、表情が生まれます。決して名品ではない器ですが、本物以上によく見えることに、驚かされます。いえ、この美しさが本来の姿で、照らそう照らそうとして、逆に見えなくなっていたのかもしれません。

こういった気付きや驚き、感動を日常の中で繰り返すことが文化となっていくのではないかと考えております。先が見えにくい最近ですが、日々の中で、こうした経験を通じて、心の根を深くしてまいりたいと思います。