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東京では、浅草鷲神社で行われる酉の市のニュースを見ると、もう年末かと感じるものですが、関西ではあまりなじみがないかもしれません。お祀りされているのが日本武尊であり、武士の信仰が厚かったことから、武士の文化が栄えた関東を中心に広がったものだと考えられています。

酉の市のころの浅草は、それはそれは賑やかで、縁起物の熊手を求める人たちであふれかえっています。浅草のお商売をされているお店は、幸運や富をかき寄せるというこの熊手を飾っていらっしゃるところが多く、江戸時代の文化が江戸の町に今もこうして息づいているというのは本当に素晴らしいことだなと思います。

そんなわけで、酉の市と言えばこの方と言っても過言ではない、橘流寄席文字・江戸文字書家の橘右之吉さんに酉の市のお話を書いていただきました。看板少年であった右之吉さんの様子がなんだか目に浮かびますね。右之吉さんに、熊手に店の名前などをその場で書いていただき、乾くのを待っている時間も、行く年が穏やかで、また来る年がよきものでありますようにと思いをはせることのできる、とても良い時間だと聞いたことがあります。今年の浅草の酉の市は、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、入場制限があるそうですが、熊手にたくさんの思いを託したいものですね。
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おとりさま

「春を待つ ことの始めや 酉の市」

松尾芭蕉門下の俳人・宝井其角の句である。
浅草鷲神社の御祭神は天日鷲命。その昔、日本武尊が東夷征討の折に戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の熊手を立て掛け、勝ち戦のお礼参りをしたのが、十一月酉の日であったことから、この日が例祭日と定められた。
この故事により日本武尊は鷲神社御祭神の一柱に合わせ祭られ、熊手が縁起物とされる所以となり、江戸の中期から天保初年頃までは、柄の長い農具の熊手におかめの面と四手をつけたものだったという。その後色々な縁起物を付けるようになり、現在の宝船、平、桧扇、文化、御所車など多くの種類が増え、毎年流行を取り入れた熊手も生まれている。
浅草鷲神社・通称「おとりさま」の裏手にある私の生家は、境内の熊手小屋を建てるなど、鳶頭の仕事の傍ら、熊手作りをも代々の稼業とする珍しい家であった。
子供の頃、学校から帰りランドセルを放り投げ、急いで家を飛び出そうとすると、決まって「これをやってから遊びに行きな」と、簡単な色付けを手伝わされた。
生家の作る熊手は赤物と呼ばれる、伝統的な「寶船熊手」で、熊手の前に帆を張り、手彩色した七福神や縁起物があれこれと載った、手間が掛かる宝船に見立てたもの。プラスチック成型物や印刷物を敢えて使わないから、手作業が延々と続き、作る熊手の数も限られてしまう。
子供だから難しいことは出来ないが、簡単な色付けや単純作業は、自然と子供達の仕事になっていた。
雨降り風間で鳶の外仕事が出来ない日は、鳶の若い衆も熊手作りに加わわって、年明けの門松が取れた辺りから竹割が始まり、酉の市直前まで熊手作りに取り組んでいる。
酉の日は十二支、十二日ごとのため、一年で五、六日の誤差が出来、二の酉の年と三の酉の年が不定期に繰り返される。
「三の酉の年は火事が多い」と言われるが、これは師走に近い三の酉の頃ともなると、寒さも増し火を使う機会が、どうしても多くなる。鷲神社の裏手には新吉原の遊郭があり、酉の市お参りを口実にして、度々出掛ける亭主達に、せめて家にいて欲しいと「足止め」に使った女房たちの台詞が、巷間に広まったのかもしれない。
熊手の代金交渉で「負けろ」と言うお客様は、「勝負に勝つ」「商いに勝つ」の縁起から、勝負はお客様が「勝ち」、売り手が「負け」という意味を持ち、お客は「勝ちを祝う「祝儀」を熊手屋に包み、目出度い取引成立を祝っての「手締め」となる。
酉の市では熊手だけでなく、「切山椒」や「大頭」の名で八頭が売られ、「出世して人の頭に立つ」、一つの種芋から沢山の芽が出るところから「子宝に恵まれる」と意味付けの縁起物が並び、この参詣客目当てに街商の露店や俄作りの出店が、たくさん軒を連ねる。
私は幼児の頃から熊手店に出され、「客寄せの看板小僧」となって手締めをしていて、境内の外の賑わいは知らずにいた。当時吉原池がまだあった周辺には、サーカスや見世物小屋まで出ていたと聞いたが、いまは昔の話。

疫病の流行で開催が危ぶまれた今年の「酉の市」。
新型コロナウイルス退散も祈り、三密を避けマスクを着けた、今までにない静かなお祭りになっている。
今年も短時間だが、用心しながら生家の手伝いに「三の酉」に赴く。
三つ子の魂百までと。