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全国的に冷たい雨が降っているようです。週末にかけて、大雨が予想されている地域もありますが、大きな被害が出ないことを祈っています。

秋は青空高く晴れ渡るイメージもありますが、「秋の長雨」と言ったりもするように、弱い雨が続くこともあります。春雨は、季節感を示す言葉として、和歌などにも多く使われていますが、秋雨という言葉はほとんど使われていません。秋雨が使われるようになったのは、近世中期に与謝蕪村などが俳諧で使うようになってからなのだとか。確かに、文学作品の『秋雨夜話』『秋雨物語』なども江戸時代の作品です。秋風は和歌にも登場するのに、秋雨はしない。秋雨に対する昔の人の思いはどんなものだったのか考えてしまいます。

今回のコラムは、変態漆作家の若宮隆志さんです。毎年心游米の収穫後、携わった國學院大學の学生さんたちと頂くご飯を入れる器をいつも提供してくださっています。その器を若宮さんは、「多々羅椀」と名付けておられますが、今回はそのお椀のお話です。神様の食べ物であるお米を漆の器で食べる意味。改めて考えさせられます。

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能登空港から車で15分ほど走ると旧柳田村合鹿(ごうろく)という地域があり、そこにはかつて幻の古椀といわれる合鹿椀(ごうろくわん)が造られていた、合鹿は山間部で能登のチベットとも言える雪深い地域にあるが、近隣地域との交通の要である。

合鹿住民の9割が椀や鉢や皿などの生活漆器制作に従事し、能州木地師の里として明治ころまで栄えたが、やがて生産も途絶えてしまった。今では福正寺という合鹿のお寺でかつてのお椀や鉢や皿を見ることができる。

福正寺は500年ほど前に能州木地師達によって合鹿の多々羅(タタラ)という場所に建てられたお寺で、多々羅御坊とも呼ばれ、18世飯山正悟御住職が今日までその伝統を守り伝えておられる。

多々羅とは日本古来の製鉄技術である。木地師が木を切るために使う斧(オノ)や鋸(ノコギリ)や鉋(カンナ)などの金属は多々羅製鉄によって造られる。現在輪島でも轆轤職人は自分で使う鉋は炭で刃物を焼き、たたいて鍛冶仕事をして自分に合う刃物を作る。木地師と多々羅の職人との近い関係がうかがえる。

ご住職の著書「法悦の楽我記」の米食と仏教には、米食人に仏教徒が多く、釈迦の父王は“浄飯王”と言われ、今でいう精米(白米)を常食としていた。椀の原型とも言われるサハリ(沙張)や合鹿椀に良く似た器をニューデリーの国立博物館で見て感動したと、また正福寺の山号が「飯林寺」であることから姓を飯山としたのであろうかと書いている。

お米や稲は神様が作った神聖な作物として扱われてきたため、お米を頂くための器も神聖なものでなければならない。そのために先祖代々育てた大切な木を切り倒すことで造られる木椀に、さらに生きたウルシの木から命の樹液である漆を掻き採り、その漆を木椀に塗る。

たくさんの命をいただきながら生きている私たちにとって漆器でご飯を頂くということは自然の摂理と人間の生が一体である事に気付き悟るための方法であったのではないかと感じる。

福正寺の合鹿椀を見ていると厳しい時代をたくましく生き抜いてきた先人たちの祈りや願いを強く感じる、私はその想いを漆器に込め後世に伝えたい。