なんだか夏休みの感覚がないまま、夏休みに突入している気がしますが、京都ではスクーターに乗って走り回るお坊さんの姿をよく見るようになりました。そんな姿を見ると、お盆だなと実感します。このような世情でも変わらず季節は巡り、ご先祖様は変わらず帰ってこられるということに、なんだか少しほっとする思いがします。
今回のコラムは、太宰府天満宮権禰宜の真木智也さんです。真木さんは心游舎理事ではありませんが、心游舎には欠かせないサポートメンバーの一人で、ワークショップでの司会やスケジュールの調整など、いつも助けていただいています。テーマは、皆さんよくご存じの「通りゃんせ」のお話。子どものころから不思議な響きがあり、心に残るこの歌の秘密を紐解いてくださいました。
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全国の町や村、神社や路地といった所で、子供たちの遊びを通して代々受継がれてきたのが、わらベ唄です。天神さまにお参りすると、自然に心に浮かぶ歌といえば、まず『通りゃんせ』でしょう。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
素朴な中に優雅な曲調をもつこの歌は、私たちを忘れ去った過去への郷愁に誘います。その不思議な力はいったい何なのでしょうか。それは、わらベ唄が私たちの祖先が残してくれた貴重な文化遺産の一つであり、民族の声だからです。その極めて平易なメロディーは、数百年前の韻律をさながら伝えると共に、私たちをしばしば魂のふるさとへと導いてくれるのです。
「この子の七つのお祝いに」天神さまへお参りするという詩は、聞く者の心を和ませ、このわらベ唄が親しまれてきた所以でしょう。昔、数え年の七つは氏子入りといい、それまで幼児として親に甘えていたものが、村の氏神さまの氏子として登録され、「子供組」に加わる年齢でした。女子は、帯解といってこれまで帯の代用にしていた付紐を取り去って、初めて帯を用いる儀式を行って氏神さまに参拝しました。このように七つの祝いは、子供たちがこれからは一人前の人間として社会生活を始めることを氏神さまに報告したことを意味しています。また、現在でも七歳というと読み書きを始める頃で学業の上達を一途に祈る親心は、今も昔も変わらぬ信仰といえます。
ところで、この歌詞の中の「行きはよいよい、帰りはこわい」という一節に違和感をもった方も多いと思います。『通りゃんせ』は、いわゆる自然わらベ唄といって誰が作ったというものではなく、民衆の生活の中から生まれ、歌い継がれてきたものです。この歌は、一名を『天神さま(参り)』ともいい、関所あそびというジャンルに属しています。
江戸幕府の時代、箱根の関所は「入り鉄砲、出女」にきびしい目を光らせ、厳重な警戒がなされていました。手形を持っていない者は絶対に通しませんでしたが、父母の重病など、何か特殊の事情をもった者だけは、関所の役人に哀訴して通してもらうことができました。しかし、帰りは絶対に許されなかったといいます。昔は、「御用のないもの」のところが「手形のないもの」、「この子の七つのお祝い」に「天神様に願かけて」とも歌われていました。
また、このメロディーで歌詞だけを聞いていますと、天神さまに参拝した帰りには何やら恐いことでもあったのかと疑問視する方もいると思います。しかし、このわらベ唄で、「帰りは恐い」の一節がなければ、この遊びはいつまでも終らないのです。つまり『関所あそび』という動作にわらベ唄(歌詞)が従ったものと考えます。この一節が、遊びの主体をなす部分で、動作の必要上、創作された歌詞と解し、深く考える必要はないように思います。というのは、私たちが現在口ずさむメロディーは、本居長世が大正時代に編曲して童謡としたものですが、地方によっては、遊戯は同じでも歌詞は異なる場合が多々あります。遊戯が里から里へ伝播していくうちにそれぞれの地域の中で土着化したのです。
『通りゃんせ』をはじめ、わらベ唄を都会でふと耳にするというようなことは少なくなりました。それゆえ、思いがけなく小さな子供たちの歌や遊びに接すると、自分が祖父や祖母のひざにいた頃の姿がまざまざと思い出され、新鮮な感覚にとらわれるものです。それは、子供の行動というものには、時代や地域の制限なくすべてのものに通じる要素があるからです。子どもは、自分たちを取り巻く環境、自然現象や大人たちの挙動を実に素直に観察し、彼らなりの創意と工夫で一種独得の『子供の文化』とでもいうべきものを作り出してきたのです。それは、長い間何遍となく繰返されていくうちに、時代や地域の差、それに子供たちのエ夫などで幾分変化しています。しかし、大人たちに干渉されることがなかったので、民族の文化の生きた証明として現代にそれを見ることができるのです。
つまり、『通りゃんせ』は、「学問の神様」を意識しつつ、庶民の魂や「こどもの風土記」の中に生きつづけ、日本人の暮らしの中に深くしみこんでいるといえます。菅原道真公を神と仰ぐ天神信仰には、発生当初から庶民の心情が深く関わり、日本人の習俗に根ざして今にある、ということの大観を見る思いがします。『通りゃんせ』には、天神信仰のもつ優しさが漂っているのです。