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現在の感染症に対して、心游舎でオンラインによるワークショップを行っている事はご承知の通りですが、二回に亘るワークショップで紹介した、疫病除けの習慣や、暑気払いとして食されていた二つのお菓子の類似性をここでは紹介したいと思います。

まず、索餅は、七夕の節句の大事なお菓子であるとともに、疫病除けとしての習慣でありました。起源は古代、中国大陸から伝わってきたお話によるものです。皇帝の子が、七月七日になくなり、その霊が鬼神となり、わらわやみ(熱病・『源氏物語』にも表現がある病気)が流行った。それを鎮めるのに、その子の好物だった麦餅を作って供えたところ、疫病がおさまったというお話が日本に渡り、まず民間に流布。最終的に公式に宮中の行事に加わったというものです。『宇多天皇御記』寛平2(890)年2月30日条にある「七月七日の索餅を小正月の小豆粥や五月五日の粽等とともに取り入れる」と記されています。そして、900年代に記された儀式書『延喜式』巻33・大膳職 下には具体的に索餅のレシピが記録されています。それを今の割合に換算すると、およそ7割が小麦粉、3割が米粉、そして少しの塩である事がわかります。また茹でた小豆をその上に載せる方法も記載されています。
ここで大事なのは、殆どが小麦である点。これは、米の収穫前の時期であるという事だけではなく、最初に伝わった伝説、麦餅こそ、疫病退散の効果があるとのお話に繋がるのではないかと思われます。それとともに、七夕には、素麺が食されますが、これは、宮中の女房方の日記にも、素麺は「そろ」、索餅は「さくへい」と記されており、別々のものとして七夕に供されていた事が判ります。ですので、一般にいう、素麺の元が索餅であるという説とは違ってくる事がわかります。

ここまで書きますと、その索餅はどんな形であるのかという疑問が湧いて来るのではないでしょうか?手元にある『広辞苑』では、「…縄の形にねじって…」と記されています。ですが、このお菓子はあまり現在まで普及する事なく、素麺の方が七夕のものとして知られているのが現状です。

そこで、七夕の七日前、六月の晦日にある水無月餅との関連を見ていきたいと思います。現在の三角形の水無月に至るまでは、虎屋さんの資料に変遷を見る事が出来ます。虎屋文庫『和菓子(水無月考)』(平成14年3月)によると、黒川家に伝わる資料には、室町時代後期には麦餅を蒸した「水無月蒸餅」の記述が出て来ます。ですが、それは、三角でなく、「ねち餅」と呼ばれるねじり形であった事が判っています。江戸時代享保年間(1700年代初頭)には、御所に「水無月餅」を献上しているが三角形と記されていないので、その時にはまだねじり形であった可能性が高いとの事。ですが、その後江戸時代後期の「こんにゃく」に関する資料に、三角形のものに小豆は、こんにゃくの形にその原型が見られ、そのこんにゃくの名称が「水無月」と名付けられているので、この時点には既に三角形に小豆の載ったものが「水無月」として定着していたと類推しています。

東京奠都後、明治4年宮中において、賢所神供(けんしょじんく)の「水無月」があり、それは、丸形のものに小豆が載っており、川端道喜さんが献上していた事。大正時代の虎屋さんの色目菓子台帳には、現在と同じ三角形の小豆の載った水無月が掲載されている事。昭和になって、広く「水無月」が食される様になったのは、氷の節句の氷を模したのと、上賀茂神社の水無月祓に併せてとして、喧伝し、広めた菓子組合の努力があった事、こういった経緯をたどります。

この様な中、水無月は、最初の「ねじり型」から「三角形」に変遷し、氷を表す共に、水無月祓に併せてという事で定着はしますが、外郎(ういろう)は、一般に使われる米粉ではなく、今も虎屋さんでは小麦粉を原材料としているところが興味深い点です。

この二つのお菓子は、7日の時間差だけでなく、共通点として、小麦を使っている事、そして、小豆を上に載せていた場合もあった事などがあげられます。当初あったねじり形の水無月蒸餅は、日の近い、索餅に集約され、水無月は、6月1日の氷の朔日の氷を模したものと、上賀茂神社の水無月祓の御幣を模したものと理由で三角形に定着し、現在まで受け継がれる様になったのではと考えられます。

いずれに致しましても、お菓子や食というものに、邪気を祓い、健康に暮らせるようという願いが伝わった季節ごとの習慣に、改めて先人の深いを思いを感じ取れるのではないでしょうか。心游舎では、9月19日にお菓子をテーマにしたオンラインワークショップを予定しています。会員配信となりますので、是非ご入会の上、ご覧頂ければ幸いです。