私たち⼈間は今、未来のために踏ん張る毎⽇が続いていますが、⾃然は思うが ままに綺麗な花を咲かせてくれます。
5⽉はカキツバタの季節です。
能の作品にも「杜若」があります。主⼈公の「杜若の精」が、煩悩のままに好⾊の⼈⽣を⽣きたとも伝えられてい る歌⼈の在原業平のことを「歌舞の菩薩の化⾝」であったと⾔い、業平の恋の歌 で舞を舞う場⾯があるのですが、ある瞬間には業平本⼈に乗り移ったかのよう に、ある瞬間には業平の妻である紀有常に、またある瞬間には業平が通っていた ⼆条后・⾼⼦にも⾒えてくる、そして愛して愛されてきた多くの⼥性たちの思い が膨れ上がってきたとおもった途端に何もかもが⾃然に還って消えてなくなっ てしまうという、不思議な作品です。
当時の好⾊男の証は情感ある歌が詠めるかどうか。作品の冒頭にも出てきま すが、業平はその異名にふさわしく「かきつばた」の五⽂字を句の上にして旅の句を詠んでいます。
実は、新型コロナウイルスの感染防⽌の為舞台が上演できなくなる直前、私が 最後に演じることが叶ったのがこの「杜若」でした。⼈間の⽣きた証が、情念から⾃然に⽴ち還るというのは、なんとも能楽らしい表現ですが、今まで駆け⾜で思い思いに⽣きてきた⼈間たちが、再び花を咲かせる為に、⼀度⾜並みを揃えて⽴ち還る時期を迎えている今の私達のことのようにも思えます。
またこの公演で地頭を務められた先輩の能楽師の⽅が、先⽇ご病気で亡くなられ、ご⼀緒させていただいた最後の作品となってしまいました。あの時は平常⼼で舞っていた「杜若」が、今では忘れることができない特別な作品となりました。