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もうすぐ節分。今年の節分は、124年ぶりに2月2日であることが話題になっていますね。1年は365日ですが、1太陽年は365.2422日。それに加えて4年に1回閏年があります。その関係で少しずつずれが生じ、立春の日が変わってくるからなのだそうです。

節分と言えば、「鬼は外!福は内!」と言いながらする豆まきですが、豆まきをされない家もあるそうです。源頼光の家来であった渡辺綱は、大江山の酒吞童子退治や、一条戻橋の上で鬼の腕を切り落とした伝説で知られています。以来、鬼の天敵である渡辺家の一族郎党には鬼が近づかなくなったという逸話から、渡辺姓の人は豆まきをされないのだとか。以前、渡辺綱の子孫という方にお目にかかったとき、「やはり豆まきはされないのですか?」と伺ったら、当然のように「しませんね」と仰り、やはり本当なのだなと感心したことがあります。
今回のコラムは、そんな節分にまつわるお話を出雲大社権禰宜の長田圭介さんが書いてくださいました。節分は、豆まきを始め、恵方巻を丸かぶりするとか、いわしの頭と柊を玄関先に飾るとか、今では花街でよく行われる仮装「おばけ」とか、様々な習慣が全国各地にあります。これらは、ほとんど厄除けの意味を持つもので、厄を祓い、新しい年(春)を迎えるためです。今年は、疫病祓いも祈りつつ、厄を祓って、よき春を心待ちにしたいですね。
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節分は、元は季節の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す言葉で、江戸時代からは特に立春前の二月三日を指す言葉として定着しています。その理由は、旧暦では立春を年の初めと定めたため、立春の前日である節分は旧暦十二月末日と並んで旧暦における大晦日と見做されました。このため二月三日の節分を特に重視する風習が生まれたと考えられています。今年は明治三十年(一八九七)以来一二四年振りに一日早い二月二日が節分とのこと、立春が二月三日になった関係だそうで、二月三日が節分でないこと自体も昭和五十九年(一九八四)以来三七年振りのことだそうです。

古来、中国では季節の変わり目には邪気或いは鬼が生じると信じられ、それがもたらす災厄を払い除けるための儀式がおこなわれてきました。日本では飛鳥時代(慶雲三年/七〇六)の十二月晦日におこなわれた「追儺」が史料上(『続日本紀』)の初見で、平安時代には桃と葦で出来た弓矢をもった官人が掛声を発しながら鬼役の官人を大内裏正門にあたる朱雀門より追い立てる儀式がおこなわれていたようです。

これに対し、現在節分行事として浸透している豆撒きは民間で始まり、広まった信仰・風習と考えられます。その歴史は比較的古く室町時代の貴族の日記や武家記録に「鬼大豆打事」や「節分大豆打」とあって、この頃には公家・武家双方において節分行事として定着していたようですが、庶民にまで広まっていたかははっきりしません。豆を撒く意味は、穀物に宿る生命力と呪力で鬼を払う、あるいは豆=魔目/魔滅の語呂合わせで鬼の目に豆を投げつけて邪気を払い、一年間の無病息災を願うもので、このときの掛声である「鬼は外、福は内」も室町時代すでにあったようです。家庭で豆撒きをおこなう場合、家族の誰かが鬼に扮し、それに向かって皆が「鬼は外、福は内」と唱えながら豆を投げるといった光景が思い浮かびますが、本来は家長や長男が年男役となって各部屋に豆を撒き、その豆(福豆)を家族は拾って年齢の数だけ食べることで一年の息災を蒙ることが出来ると言われています。

この一般的な豆撒きに対し、私が奉務する出雲大社の豆撒きは一風変わっています。それは、氏子は自ら豆を持参して、それを御本殿正面の八足門前で「鬼は外、鬼は外、福は内、福は内」と唱えながら前後に撒き終わって拝礼します。拝礼後には神社が用意し八足門前木箱に供えられた福豆をお下がりとして持ち帰ります。豆撒きは御本殿だけでなく境内の各摂末社でもおこなうので、翌日は職員総出で境内の豆掃除をおこなうのも恒例となっています。この全国的にも珍しい節分の風景がいつ頃始まったのか定かではありません。節分当日、県外から参拝に訪れた人々の多くが、この一風変わった節分風景に驚く様子も毎年恒例の風景でありましたが、今年は新型コロナウイルスの影響で例年のようにならず残念でなりません。出雲大社に限らず全国の多くの社寺が節分行事の規模縮小や中止を余儀なくされたと思いますが、来年の節分には「鬼は外、福は内」の大きな声が全国の神社・寺院において響き渡ることを願っております。